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2010.11.15 Monday
真実の愛からは誰も逃れることはできない
2010.11.11 Thursday
愛という言葉は心地いいものです。私たちは世界から愛されています。そして世界の誰か、あるいは何かを愛しています。こうして世界は愛に満たされていきます。
現実の世界は愛に満たされているでしょうか。いいえ、私たちは世界に愛が足りないと思っています。もっと愛が欲しいし、愛する何かや誰かを捜し求めています。
世界には愛が満ちているはずなのに、なぜでしょうか。私たちは私が望むように世界に愛され、私が望むように世界を愛したいのです。愛は憎しみとなり、憎しみは愛となります。この繰り返しによって生まれた記憶が愛を定義し、それが私自身の愛となります。
私自身の愛は記憶による定義であって、真実ではありません。真実ではないので、それが崩れ去らないよう、私たちは常に定義を補強するための経験と概念を求め続けます。そして、愛はそれに合わせて定義と概念に成り下がります。
私自身の愛という定義と概念が失われると、愛は自由の中に解放されます。その解放によって、再び世界は愛に満ちていることを知ります。愛は定義や概念ではなく、リアルにそこにある真実なのです。
私たちは圧倒的な愛の前に逃げようとしても逃げられないことを知ります。私たちが見聞きするすべてが愛であり、愛でないものは何も存在しません。何も望まなくても、それは在り続けます。与えられ続けます。
私が個人的エゴであるとき、それはふるいにかけられます。私にとって好きな愛と嫌いな愛に分けられます。私が消え去ったとき、愛は圧倒的に私を包み込み、愛することと愛されることが消えて、愛だけになり、根源的な存在の中に愛さえも消え去ります。マカラヒア!

サハジャマスター
現実の世界は愛に満たされているでしょうか。いいえ、私たちは世界に愛が足りないと思っています。もっと愛が欲しいし、愛する何かや誰かを捜し求めています。
世界には愛が満ちているはずなのに、なぜでしょうか。私たちは私が望むように世界に愛され、私が望むように世界を愛したいのです。愛は憎しみとなり、憎しみは愛となります。この繰り返しによって生まれた記憶が愛を定義し、それが私自身の愛となります。
私自身の愛は記憶による定義であって、真実ではありません。真実ではないので、それが崩れ去らないよう、私たちは常に定義を補強するための経験と概念を求め続けます。そして、愛はそれに合わせて定義と概念に成り下がります。
私自身の愛という定義と概念が失われると、愛は自由の中に解放されます。その解放によって、再び世界は愛に満ちていることを知ります。愛は定義や概念ではなく、リアルにそこにある真実なのです。
私たちは圧倒的な愛の前に逃げようとしても逃げられないことを知ります。私たちが見聞きするすべてが愛であり、愛でないものは何も存在しません。何も望まなくても、それは在り続けます。与えられ続けます。
私が個人的エゴであるとき、それはふるいにかけられます。私にとって好きな愛と嫌いな愛に分けられます。私が消え去ったとき、愛は圧倒的に私を包み込み、愛することと愛されることが消えて、愛だけになり、根源的な存在の中に愛さえも消え去ります。マカラヒア!

サハジャマスター
小さな神様
2010.11.09 Tuesday
私たちは大きくなり過ぎてしまった。なんでもかんでも自分の中に取り込んで、私たちはまるで風船のように膨らんでいったからだ。
昔、神様は私たちと同じ大きさだった。だから私たちはいつでも神様を見ていた。今では、神様は小さいまま、大きく膨らんだ私たちの周りにちょこんとくっついている。そして、私たちは神様を見つけられなくなった。
あるとき、私の大きく膨らんだ身体の影に小さな神様を見つけた。私は神様を見つけて、畏れ多くなり、身体を縮めた。神様と同じ大きさになり、神様より小さくなろうとしてさらに身体を縮めた。神様は偉大なので、私は神様より大きいままではいられないと思ったからだ。
神様はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、そんな私よりももっと身体を縮めてきた。私はさらに身体を縮めた。二人はどんどん縮んでいって・・・小さな小さな粒になった。そして二人とも見えなくなった。神様も私も消えて一緒になった。神様と私はおかしくなって笑った。マカラヒア!
サハジャマスター
昔、神様は私たちと同じ大きさだった。だから私たちはいつでも神様を見ていた。今では、神様は小さいまま、大きく膨らんだ私たちの周りにちょこんとくっついている。そして、私たちは神様を見つけられなくなった。
あるとき、私の大きく膨らんだ身体の影に小さな神様を見つけた。私は神様を見つけて、畏れ多くなり、身体を縮めた。神様と同じ大きさになり、神様より小さくなろうとしてさらに身体を縮めた。神様は偉大なので、私は神様より大きいままではいられないと思ったからだ。
神様はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、そんな私よりももっと身体を縮めてきた。私はさらに身体を縮めた。二人はどんどん縮んでいって・・・小さな小さな粒になった。そして二人とも見えなくなった。神様も私も消えて一緒になった。神様と私はおかしくなって笑った。マカラヒア!
サハジャマスター
経験とマインドを超えた風の彼方で瞑想をする
2010.11.08 Monday
私たちはいつでももっと高く、もっと奥へと進んで行くことができます。私たちがもっと高く、もっと奥へと何かを求める限り、そこにはその経験が在ります。私たちはその経験によって、「私が高貴になった」「私は昔と違う」「私はもっと知るようになった」そう思うのです。
その経験に満足しているのはマインドです。それにつかまっている限り、マインドから抜け出すことはできません。私たちはそうしようと思えば、永遠に経験を追い求め、それをつかみ続けるでしょう。そして瞑想はただの経験する道具になり下がります。注意しないと瞑想が私たちのエゴを強化するというのはこのためです。
経験の向こうには経験を越えた経験が在ります。それは経験の限界を突破した者だけが知るところです。瞑想の方向が正しければ、私たちは経験を突破します。経験という風の彼方にほんとうの瞑想があります。
それは経験ではない経験、世界を経験することを越えて存在することです。私たちはいつでもそれで在り続けています。マインドがそれを隠し続けています。存在は身体やマインドを越えて、はじまりもおわりもなく在ります。私たちは風の彼方にあるそれに瞑想することです。マインドや経験を超えて瞑想をするのが、旅の終にある私たちの姿です。マカラヒア!
サハジャマスター
その経験に満足しているのはマインドです。それにつかまっている限り、マインドから抜け出すことはできません。私たちはそうしようと思えば、永遠に経験を追い求め、それをつかみ続けるでしょう。そして瞑想はただの経験する道具になり下がります。注意しないと瞑想が私たちのエゴを強化するというのはこのためです。
経験の向こうには経験を越えた経験が在ります。それは経験の限界を突破した者だけが知るところです。瞑想の方向が正しければ、私たちは経験を突破します。経験という風の彼方にほんとうの瞑想があります。
それは経験ではない経験、世界を経験することを越えて存在することです。私たちはいつでもそれで在り続けています。マインドがそれを隠し続けています。存在は身体やマインドを越えて、はじまりもおわりもなく在ります。私たちは風の彼方にあるそれに瞑想することです。マインドや経験を超えて瞑想をするのが、旅の終にある私たちの姿です。マカラヒア!
サハジャマスター
マインドであるとき、意識であるとき
2010.11.07 Sunday
私たちは何かの出来事で傷つくことが起こると思っています。そして、何が私を傷つけたのか、誰が傷をつけたのか、なぜ私が傷つけられなければならなかったのか、私は傷つき苦しんでいる、そういう思いが生まれます。そういう思いは何かを隠してしてしまいます。その何かは「誰が」傷ついているかということです。
傷ついているのは誰なのでしょうか。私は傷ついている、ナイフが私のハートに深く突き刺さっている、そのとき私は「傷」を見て、「私」を見ていません。私を見るとき、私を知るとき、私は傷ついていないことを知ります。どんなに鋭いナイフもほんとうの私に届くことはないのです。傷つくのは、傷ついていると思うのはマインドであり、そのマインドは生まれたり消滅したりする波のようなものです。そのマインドに合わせて、傷は生まれたり消えたりしています。
傷つき続けているという感覚は、記憶によります。私たちのマインドの記憶が、私は傷ついているという状況を生成し続けているのです。実際には、誰も傷ついてなく、傷つける誰もいません。マインドの記憶によって、そのたびに傷ついている私が幻想のように浮かび上がるのです。
私たちの核心である「意識」はマインドと記憶を越えているので、傷つくことがありません。傷もナイフもハートも、意識のレベルでは在るだけになります。すべてがエネルギーレベルさえ超えて、その純粋性に戻ってしまうのです。マインドは、私は傷ついたと思うでしょう。しかし、意識の目では誰も傷ついていないことを知っています。だから、私たちが意識であるとき、傷つくことを恐れず、オープンでいることができるのです。
マインドがまね事でこれをすれば混乱するでしょう。これは傷つくことも、恐れることもないと思い込むことではありません。意識として目覚めていれば、恐れることもオープンでいることも意識せず自然にそうなってしまうのです。それはまね事でも努力でもありません。意識として、真実として在るというのは、ただ単にこういうことなのです。マカラヒア!
サハジャマスター
傷ついているのは誰なのでしょうか。私は傷ついている、ナイフが私のハートに深く突き刺さっている、そのとき私は「傷」を見て、「私」を見ていません。私を見るとき、私を知るとき、私は傷ついていないことを知ります。どんなに鋭いナイフもほんとうの私に届くことはないのです。傷つくのは、傷ついていると思うのはマインドであり、そのマインドは生まれたり消滅したりする波のようなものです。そのマインドに合わせて、傷は生まれたり消えたりしています。
傷つき続けているという感覚は、記憶によります。私たちのマインドの記憶が、私は傷ついているという状況を生成し続けているのです。実際には、誰も傷ついてなく、傷つける誰もいません。マインドの記憶によって、そのたびに傷ついている私が幻想のように浮かび上がるのです。
私たちの核心である「意識」はマインドと記憶を越えているので、傷つくことがありません。傷もナイフもハートも、意識のレベルでは在るだけになります。すべてがエネルギーレベルさえ超えて、その純粋性に戻ってしまうのです。マインドは、私は傷ついたと思うでしょう。しかし、意識の目では誰も傷ついていないことを知っています。だから、私たちが意識であるとき、傷つくことを恐れず、オープンでいることができるのです。
マインドがまね事でこれをすれば混乱するでしょう。これは傷つくことも、恐れることもないと思い込むことではありません。意識として目覚めていれば、恐れることもオープンでいることも意識せず自然にそうなってしまうのです。それはまね事でも努力でもありません。意識として、真実として在るというのは、ただ単にこういうことなのです。マカラヒア!
サハジャマスター
世界は繁栄と衰退を繰り返すが、意識は豊かで在り続ける
2010.11.06 Saturday
豊かであること繁栄することは違います。繁栄は動きであり、そこには成功とか幸福になるという具体的な期待があります。そのため、いつも私は成功していないとか、幸福でないという状況を肯定し、苦悩がそこに存在しているのです。たとえ成功したり、幸福になったりしたとしても、次の成功と幸福を求めはじめます。そして苦悩もはじまります。繁栄は常に苦悩が付きまとい、そこに真の豊かさが存在することができません。
豊かさはすでに豊かであると知ることです。豊かであるため、何も求める必要がありません。意識は何も求めません。意識の中で満たされ、それで十分だからです。すべては意識の中に豊かに存在しています。
そこに存在しているということが、世界のすべての物事の不動性、確実性であり、それに様々な姿形が見た目として付け加えられています。姿形は変化しますが、在ることは変化しません。繁栄はその姿形の部分なのです。私たちが意識として在り、その変化しないところを感じるなら、いつも豊かで在ることがリアルなのだということがわかるでしょう。
世界は変化し、繁栄と衰退は繰り返されます。私たちは何かを得たり、失ったりすると感じることでしょう。何かが創造され、破壊されると感じることでしょう。真実は、繁栄も衰退もなく、得ることも失うこともありません。破壊も創造もありません。私たちが意識として在るとき、世界は変化しますが、それがどうあれ豊かであることに変わりはないことを知っています。マカラヒア!
サハジャマスター
豊かさはすでに豊かであると知ることです。豊かであるため、
そこに存在しているということが、世界のすべての物事の不動性、
世界は変化し、繁栄と衰退は繰り返されます。
サハジャマスター
自分が誰かを知らないことは偽りであり、本当の自分をだまし通すことはできない
2010.11.05 Friday
「私は誰か」というこの問いかけだけでいいと言ったのはラマナマハリシです。人生において、私は誰なのかを知るだけでいいということです。その他の質問や問題はその補足に過ぎません。重要に思えるどんなことでも、それらは人生の本道から外れたものであり、本道に戻るための扉といえるものです。すべてが「私は誰か」に戻っていきます。
私は誰か知らずに生きるのは、目隠しをして崖にかかった丸木橋を渡るようなものです。とても危なっかしいものです。危なっかしい姿を見て、ほんとうの私は、私たちの奥底から、私はここにいるということを主張し続けています。しかし、私たちはなかなか目隠しを取ることはありません。
私たちはいままで目隠しをして生きてきたからです。いくら危なっかしくても、つまずいて怪我をしても、目隠しをしていること自体が安心できるのです。私は私が想像する存在としてあるように、心の中にある自分のイメージが優先されています。目隠しを取れば、今まで信じてきたことが崩れ去ってしまいます。
自分が誰かを理解したとしても、人生がこの身体とマインドで生きていくことに変わりはありません。私たちは自分が誰かを知らないことが偽りだと知っています。いつまでも知らないふりをし続けることはできません。恐れを捨てて目隠しを取ることです。本当の自分を認めて、それで在るということを理解することです。マカラヒア!
サハジャマスター
私は誰か知らずに生きるのは、目隠しをして崖にかかった丸木橋を渡るようなものです。とても危なっかしいものです。危なっかしい姿を見て、ほんとうの私は、私たちの奥底から、私はここにいるということを主張し続けています。しかし、私たちはなかなか目隠しを取ることはありません。
私たちはいままで目隠しをして生きてきたからです。いくら危なっかしくても、つまずいて怪我をしても、目隠しをしていること自体が安心できるのです。私は私が想像する存在としてあるように、心の中にある自分のイメージが優先されています。目隠しを取れば、今まで信じてきたことが崩れ去ってしまいます。
自分が誰かを理解したとしても、人生がこの身体とマインドで生きていくことに変わりはありません。私たちは自分が誰かを知らないことが偽りだと知っています。いつまでも知らないふりをし続けることはできません。恐れを捨てて目隠しを取ることです。本当の自分を認めて、それで在るということを理解することです。マカラヒア!
サハジャマスター
世界は私たちに何を与えているのかが大事でしょうか
2010.11.03 Wednesday
求めようとしなければ、世界があなたのために与えようとしているのが分かります。個人的エゴが求めて苦しむのは、求めるものそれだけしか目に入らないからです。だから、与えられていると感じられないのです。そのため個人的エゴは世界はなぜ私に与えないのかとさえ感じるでしょう。
個人的エゴを静めて意識として在るとき、私たちには想像を超えるものが世界から与えられていることに気がつきます。それは個人的エゴに与えられているものではなく、意識としての自分に与えられています。世界は意識としてのあなたに与えずにはいられないのです。
そこにある空間、空気、大地や日の光、私たちを癒す芝生の緑、川のせせらぎ、鳥たちのさえずり、フローリングの木目や金木犀の香。それらは私たちがつくりだしたものではありません。世界は驚くべき創造力で私たちの周りに奇跡を起こしています。
ただ、その奇跡は壊れていくということも真実です。それははかないものです。けっして壊れないもの、それは私自身、つまりこの意識です。変わることのないその一点を中心として、世界は星の動きのように移り変っているのです。
何が私に与えられるかは問題ではありません。それは与えられるものを拒否するということではありません。それは世界が与えたいようにしておけばいいのです。何が与えられようと、それは永遠ではないのです。
私たちは意識として在るだけです。それが最高であり、世界が与えようとするものはすべてその下に位置しているものです。これが理解です。マカラヒア!
サハジャマスター
個人的エゴを静めて意識として在るとき、
そこにある空間、空気、大地や日の光、私たちを癒す芝生の緑、
ただ、その奇跡は壊れていくということも真実です。それははかないものです。けっして壊れないもの、それは私自身、つまりこの意識です。
何が私に与えられるかは問題ではありません。それは与えられるものを拒否するということではありません。それは世界が与えたいようにしておけばいいのです。何が与えられようと、それは永遠ではないのです。
私たちは意識として在るだけです。それが最高であり、世界が与えようとするものはすべてその下に位置しているものです。これが理解です。マカラヒア!
サハジャマスター
静かに!(5/5)
2010.11.02 Tuesday
求めることを止めて、じっとしてみる。私たちの人生にはこの時間が必要だ。そうすると、いままで感じられなかったことを感じられる。地球は低くうなりながら自転し、草原ではやわらかい枯れ草の香の中で虫たちが鳴いている。身体を優しく包む砂漠の砂のきめ細かな感触、すべてがひとつになるような夜の海の静寂。そして・・・そこにいる自分。そこにいる自分。私はそこにいる。静かに、あまりにも静かに。そして確かに。じっとしていると、景色と状況の向こうに自分が現れてくる。何も求めない退屈さの向こうにそれはある。じっとしている無価値のむこうにそれはある。それの中に求めるという苦しみはない。マカラヒア!
サハジャマスター
サハジャマスター
静かに!(4/5)
2010.10.30 Saturday
私はベッドで目が覚めた。そこは草原でも砂漠でも大海原でもなかった。暖かく心地いいベッドだった。視界を遮る生い茂る草、乾ききった砂、果てしない海はそこにはない。私ははじめからベッドの中にいて、やわらかい毛布に包まっていたのだ。私はほっとすると同時に、私を恐れの中に誘い込んだ夢の世界を少し懐かしんだ。目を開けて天井を見る。これは現実だ。しかし、私はこの現実の瞬間から求めはじめていた。もっと眠る時間が欲しい、誰かが朝食をつくってくれないだろうか、やさしい誰かの温もりがあれば・・・。まるで夢の中の続きのように。そして現実でも夢の中のように、求めたものが実現した瞬間、苦悩がはじまっていく・・・。
サハジャマスター
サハジャマスター
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